過去近の受賞作品

南條範夫
燈台鬼
第35回(1956年上半期受賞)

時は唐の代宗の御世である大暦14年3月、長安の蓬莱宮において一つの事件が起きていた。日本の遣唐使小野石根が「この宴席において日本の席次が新羅より下に置かれるとは承服しがたい」と脇目もふらず叫んでいたのだ。この言葉に新羅の使者は大いに反発した。面倒と見た唐側は日本の使節の謁見を早め、すぐに都から去るようにしてしまう。
出発を間近にひかえた石根は、高階遠成とともに長安の場外を馬で散策していると、2人の後を先ほどから付けて来た謎の男達に襲われる。石根は遠成を逃し、一人でその集団に立ち向かった。彼らの言葉から新羅の人間ということが分かったが、石根は馬から突き落とされ、連れ去られそうになる。だが彼は、遠成が助けを連れて戻ってきた事に感づいた暴漢達により傍らの溝に投げ捨てられ、男達もそのまま逃亡してしまった。石根はやがて気を失う。
遣唐使の帰国後、石根はその帰路で海難事故のため死亡したと伝えられた。そして3年後、嘆き悲しむ妻の衣子のもとに帰国した遠成が訪れ「実は石根は長安で行方不明となっており、彼の名誉のために水死した事になっていた」と告げる。横で聞いていた9歳の息子の道麻呂は「ならば自分が大きくなったら遣唐使となって父を唐へ探しに行く」と幼いながらも母に毅然と申し出た。
そして二十数年後の延暦23年7月、藤原葛野麿を大使として出発する遣唐使船第二船の中に道麻呂と遠成の姿があった。長安に着いた2人はあらゆる手を使って石根の行方を捜したが、その手がかりは全くつかめず、やがて帰国の頃となった。遠成は「揚州から帰る副使の一行に加わって、そこで探してみてはどうか」と提案する。だが揚州においても、同じく少しの手がかりも得られなかった。
ついに帰国の時となり、揚州節度使陳大勉は遣唐使一行に別れの宴を催した。節度使は芸人一団を会場に呼び寄せ、一行にも何か余興を求める。若い道麻呂がその最初となり、彼は母が旅立ちの際に送ってくれた歌を切々とうたった。その時に道麻呂は、部屋の隅に置かれた大きな3つの燭台のうち、1つがわずかに動いたことに気づいた。
その後奇妙なことに、一人の役人がその燭台を鞭で打擲し始めたので呆気に取られていると、横にいた節度使の書記が「あれは燈台鬼という人間の燭台で、体を動かした為に鞭で打たれているのです」と教えられた。鞭の罰を与えられていた燈台鬼は60歳ほどの老いた男だった。その男は自分に近づいた道麻呂の顔を眺めると突如奇声を発し、自らの唇を食い破ると、したたり落ちる血を足の指でなぞり「石根」の2文字を書いた。

山口瞳
江分利満氏の優雅な生活
第48回(1962年下半期)受賞

あらすじ
江分利満氏は、東西電機の宣伝部員で、典型的な日本のサラリーマン。大正15年生まれなので、数え年は昭和の元号と一致している戦中派である。そんな江分利氏が生きた昭和30年代の日常を、コミカルに描いている。

野坂昭如
火垂るの墓
第58回(1967年下半期)受賞

1945年(昭和20年)9月21日、清太は省線三ノ宮駅構内で衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに蛍がひとしきり飛び交い、やがて静まる。
太平洋戦争末期、兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区)に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、父の従兄弟の未亡人である西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。
当初は共同生活はうまくいっていたが、戦争が進むにつれて諍いが絶えなくなる。そのため2人の兄妹は家を出ることを決心し、近くの池のほとりにある防空壕の中で暮らし始めるが、配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていく。清太は、畑から野菜を盗んだり、空襲で無人の人家から物を盗んだりしながら生き延びる。やがて日本が降伏し戦争は終わった。敗戦を知った清太は、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受ける。
節子の状態はさらに悪化し、清太は銀行から貯金を下ろして食料の調達に走るが、既に手遅れで、幼い妹は終戦の7日後に短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を後にして去っていくが、彼もまた栄養失調に冒されており、身寄りもなく駅に寝起きする戦災孤児の一人として野垂れ死ぬこととなる。